説教要約(6月)

2023年6月25日(日)  説教題:「解放」    聖書;ローマの信徒への手紙7章1~6節
 7章の主題になっているのは「律法」です。当時のユダヤ社会はこの律法を中心に据えて作られていました。パウロはそこからの解放があることを語っています。結婚の譬えでは死によって律法の縛りから解放されることが言われていました。その死は私たちの肉体が死ぬことではありません。634節にはこう書かれています。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
 私たちは洗礼を受けてキリスト者になります。それはイエス様を信じることを告白するだけではなく、キリストの死に与かる、つまりはキリストと共に死ぬことです。そこで死ぬのは古い自分です。古い自分が一度死んで、新しく生まれ変わります。見た目や態度が劇的に変わるわけではありませんが、キリストが十字架で死んだように古い自分自身も死に、そして神様によって生きるようになります。これまでとは決定的に違う価値観の転換が起こるわけです。それが洗礼を受けてキリストの死に与かり復活するということです。だから洗礼を受けているキリスト者一人ひとりは、既に律法によって縛られているのではありません。この世を支配する力によって支配されているのではありません。キリストによって結ばれています。私たち自身が死んだことはなくとも、私たちの代わりに死んだイエス様によって死に与かり、キリストに結ばれているのです。
 私たちを縛るのは、この世にあるたくさんの力ではありません。神様はそこから私たちを解放してくれました。そのような中にありましても、この世で生きている中で支配しているように感じる大きな力に、飲み込まれてしまいそうになることもあります。それらを前に心細くなってしまうこともあります。ですが、私たちには神様がついています。そしてイエス様が聖霊を通して一緒にいます。目の前には厳しい現実があるかもしれませんが、私たちを縛り付けているのは、それらの不条理ではありません。私たちはキリストに結ばれています。既にそのキリストによって解放されているのです。
2023年6月18日(日)  説教題:「命へ」    聖書;ローマの信徒への手紙5章12~21節
 一人の人から人間に罪が入り込んだと聖書には書かれています。それがアダムの罪だとパウロは語ります。彼が楽園で神様の言われた掟を破ったことによて、人間は神様から離れて掟を守れない存在になってしまいました。そして罪によって死に囚われる者となったことが言われています。死は、誰にでも訪れていきます。私たちが避けることのできない、絶対的なことです。それほどまでに大きな出来事なので、「死が全てである」と考えてしまいます。イエス様に導かれて神様を信じていながらも、死の先にある復活の出来事を私たちは見逃してしまうのです。
 人間に罪が入り込んだことによって、死に囚われていく。とても明るい道には思えません。しかし、聖書にはそのような道であったとしても、希望が残されていることが語られています。
 人間の罪と、その結果による死の支配。それらに勝るものがあることを、パウロは示しています。それがキリストの恵みです。神様を信じ、イエス様を信じる人間が、死の支配から命へ至るために、キリストは私たちに恵みの賜物を備えてくださいました。この「キリストの恵み」が、十字架のキリストによって与えられた赦しです。欠けも多く、神様によって歩むことを忘れてしまう者たちです。しかし、その罪を罪として持ったまま、十字架を通して私たちを赦してくれました。その恵みは私たち人間全体へと広がり、今度は私たちが復活のキリストの支配の中を歩めるようになりました。ここに罪によってもたらされた死の支配以上の、力強く確かな支配があるのです。
 今日は花の日礼拝です。今年もいろんな花が私たちの周りには咲きました。一つの株から分かれたアジサイは、いろんな色の花をつけています。これと同じようにアダムから私たちへと罪が広がっていきました。確かに私たちは罪と死によって悩まされる者です。それは誰に何を言われても変わらないことでしょう。しかしキレイな花が広がっていったように、私たちにとっての救いへの招きも、豊かに広がっていきました。私たちには罪からの赦し、そして命への招きが、花のように広がっていっています。キレイな花のように咲いた命への招きが、私たちには与えられています。花が生命力に溢れているように、私たちもイエス様によって示された命の恵みに溢れているのです。

2023年6月11日(日)  説教題:「苦難から」    聖書;ローマの信徒への手紙5章1~11節
 「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」この聖句が教えていますのは「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」ということではありません。私たちに訪れていく苦難が、最後には希望へと変えられていくのが人間の努力ではなく、神様から与えられる救いの出来事として教えています
 聖書には苦難は忍耐を生むことが書かれてあります。この忍耐を生むのは人間の力ではなく神様です。人が忍び耐えるとき、やはり神様に依り頼んでいかなければなりません。人間が苦難によって弱っているときに、神様によって忍び耐えるときが守られている。その守りが与えられることが忍耐です。
 そして忍耐は、練達を生みます。聖書に書かれている「練達」には「試す、吟味する」という意味を持つ言葉が使われています。苦難の時を神様により耐え忍ぶことが守られた、「気付き」と言っても良いかもしれません。私たちは苦難の中にあって与えられる忍耐。それによって気付きが与えられます。それは「何よりも神様からの救いによって生かされている」ということです。私たちは苦難から逃れようと努力します。何度も何度も自分の力でどうにかしようと、試していきます。しかし、それでは苦難から逃れられないことを思い知らされます。そして、気付くのです。私たちは神様から与えられる「救い」でしか助からないのだと、気付きが与えられるのです。
 練達によって得られた確かなもの。神様の救いが、確かにある、という確信が、私たちに示されています。苦難が忍耐を生み、それよって与えられた確かなもの。それが希望です。イエス様の十字架の出来事によって与えられた救いの出来事が、私たちに与えられた希望なのです。
 様々に訪れます苦難は、苦難のままで終わることはありません。苦難のときに神様から忍耐が与えられ、練達という気付きによって救いの確信を得ます。その希望が私たちにはキリストによって与えられました。この希望に向かって新しい一週間を歩んでまいりましょう。


2023年6月4日(日)  説教題:「約束を守る」    聖書;ローマの信徒への手紙4章13~25節
 アブラハムは神様を信じて義とされ、祝福が約束されました。彼は律法ではなく、ただ神様を信じることによって、その祝福を受けたのです。
 これはそれだけアブラハムが、しっかりと約束を守ったからそのご利益として約束が守られた、という訳ではありません。創世記を読んでみますと、神様はアブラハムに何度も何度も約束を与えられ続けたことが分かります。アブラハムは確信を持って約束を信じていったのですが、それでもやはり人間です。「わたしたちの父」、「信仰の始祖」と呼ばれていても、やはり現実の出来事に引きずられて、神様からの約束を信じられなくなることがありました。そのたびに神様はアブラハムに「約束を守るから、あなたは私を信じなさい」と語り掛け続けます。アブラハムは信仰によって義とされたのですが、その信仰も疑いのないような固く、力強い信仰ではありません。現実に引きずられて信じられなくなるような、不安定なものでありました。

 約束が信じられなくなり、不安定になったとしても、その約束を根拠に人を立ち帰らせてくださいます。これが神様によって果たされた信仰による義です。神様は信じることに何の疑いもない人を立てられるのではありません。そこに疑いがあったとしても、その疑いを赦して、その先にある約束へと続く道に立ち帰らせてくださるのです。
 アブラハムはその約束通りに、地を受け継ぐ者となりました。これは世界の支配者として君臨する権威を得ることではなく、その恵みを受けて神様の支配の中で生きていけるようになることです。私たちにもアブラハムがそうであったように、地を受け継ぐ者としての約束が与えられています。私たちが神様の支配に入るということは、十字架のキリストによって贖われて、神様とこれからも繋がっていけるように生きてく歩みです。しかし、約束が与えられているのと同じように、私たちもアブラハムと同じような信仰者だと言えるでしょう。神様によって救われた日々を歩んでいるのですが、その信仰が固くて疑いようのないものだとは、なかなか口に出して言うことはできません。そんな私たちですが、こうして礼拝生活を送り、神様と繋がっていられるのは、神様がその度に私たちを励まし、なんとか信仰者として立ててくれているからです。神様がその正しさによって励まし、そしてなんとか救いの約束に向けて立ち帰らせてくれている。だから私たちは、なんとかキリスト者として生きていけます。この救いの恵みによって、疑い迷う私たちは神様が与えてくださった救いの約束へとまた帰っていくことができるのです。